イタリアのサッカーにおける、「歌い方」

「食べ、歌い、愛す」これが、イタリア人のモットーとか。
イタリアにおいて、歌、と言うのは、かなりの歴史があって、集約すると、ルチアーノ・パヴァロッティと言う事になってしまうのだが、それでもまだ足りない。


オペラ、カンツォーネ。しかし、イタリアの生んだ音楽は、それだけではない。
みなさんおなじみの、ユーロビートもイタリア生まれ。あのノーテンキなリズムも、イタリアが原産地。また、現在のイタリアと言えば、イタリアンポップス、と言うジャンルがあり、これを避けては、サッカーとの関連を探るわけには生きません。


ただ、ユーロビートを除くと、メロディーに共通性があります。「哀愁」と言うか「切なさ」と言うか。メロディーが、演歌チックな所があります。「食べ、歌い、愛す」と言うような、人生観を反映するように、人生における、感情の波を、謳歌するように、サビの所では、必ず、悲壮感あふれる盛り上がりを見せます。


サビの悲壮感あふれる盛り上がり、と言うのは、音楽的に言うと、そこまで、エネルギーを溜めておいて、一気に放出しないと、盛り上がりません。悲壮感がでるには、エネルギーを溜める段階において、恨みつらみをボソボソといっておいた方が、盛り上がりにおいて、より「飛躍感」が出るもの。


エネルギーを溜めておいて、ここぞ、という盛り上がりの場所を見つければ、そのエネルギーを一気に放出する。溜めるエネルギーには、恨みつらみがたっぷり。


ディフェンスに追われ、とにかく、失点だけは防ぐようにプレーし、耐える。最初から、攻撃的、という事は決してありません。もともと、それほど、「外向き」の感情がなく、頑なに家父長制を守るような土地柄なので、「超保守的」。基本的に、守りの姿勢があります。しかし、攻撃を受けている間、守り続けていなければならず、それは、恨みつらみの感情になっていきます。我慢に我慢を重ねて、ここぞ、という時に、一気にその恨みを晴らすがごとく、全力で攻撃しますが、それが、失敗に終われば、また、「貝に閉じこもる」。


基本線がこれなので、とにかく失点は絶対しないで、いざという時、ダイレクトプレー。溜めていたエネルギーを一気に放出する、ゴールに向かって、一気に攻め切るダイレクトプレー。これで、点が取れなければ、また、耐える日々が続きます。イタリアサッカーはこの繰り返し。攻める時になれば、直接的なアプローチでもって、余分な事はせず、感情の爆発力を反映するように、一気に攻め切る。失敗に終われば、またの機会をずーっと待ちます。


イタリア人に、常に主導権を握る、攻撃サッカーを期待するのが、そもそも無理があるような気がします。日本人以上に、耐え忍ぶ事が得意。イタリアンポップスの歌詞も、内省的。何となく分かると思いますが、その世界は、非常に「女々しい」。耐えて、耐えて、いつかきっと、明るい日が来る日まで。明るい日が来た、と確信するまで、討って出る事なんかしません。ファミリーの結束は固く、「守り」においては、非常に打たれ強い。反面、「攻め」においては、「行ける人が行けばいい」という状態。


ディフェンスラインから、もしくは中盤の底から、「行ってこい」の一本のパス。「行ける人」だけが、ゴールに向かって、猪突猛進しますが、だ〜れも援護なんかしません。逆襲なんて、絶対浴びたくない。一時の、メロディーの盛り上がりは、それはとても大きなものなのですが、それが終わると、元通り、耐える、耐える。なんか、薄幸のサッカー、薄幸の歌、というのが、イタリア的な感じです。